furukatsu氏との議論の纏め。導入部はゲリラ戦からでしたが、実際には当初から実質的に徴兵制と志願制についての話でした。これは以前からfurukatsu氏側が私に対して、「一度話し合ってみたい」と思っていたテーマだったからです。
ゲリラ戦と徴兵制の軍事的、政治的解釈 - furukatsuの軍事
確かに現状の日本の作戦環境下で自衛隊を解散し民兵組織によるゲリラ戦を展開するのは無理無茶無謀である。しかしながら、例えば退職した自衛官や消防団のような組織を中心としてゲリラ的な戦闘を展開しうるような組織を作ることは十分に考えられうるし議論の余地のある考えになるだろう。また、いわゆる正規軍にあっても従来の近代型の官僚組織による軍隊ではなく、分散したゲリラ的な統帥法というのも十分に検討しうるであろう。RMAについての議論から考えても、官僚組織型のトップダウンによる統制は電信、電話による指揮に適合的なのであって、現代のコンピュータとデジタルネットワークにおいてはむしろゲリラ的な統帥法が適合的な場合も考えられるのである。
先ずfurukatsu氏の懸念は、自衛隊の予備役の少なさ、準軍隊組織が存在しない事への不安感(海には沿岸警備隊である海上保安庁があるが)があると思います。実際に他国(志願制軍隊を採用している国でさえ)と比べても日本自衛隊の予備兵力の少なさは際立っており、予算と政治的な事情さえ許せば、この部分を充実させるべきと私も同意します。(ただ、単純に予備役を増やすだけでも予算増が必要といった困難な事情があり、更に民間防衛隊設立となると政治的に議論は当面棚上げにするしかありません。)
そして分散したゲリラ的な統帥法とは何か。正規戦は分散と集合を繰り返し、決戦時にどれだけ兵力を集中できるかで勝負が決まります。これに対しゲリラ戦は決戦そのものを回避します。そうなると基本的に分散襲撃となるわけですが、敵勢力の弱い部分に攻撃を仕掛ける際に、局所的な戦術的優位を確保してから仕掛けるのは勿論なのですが、本格的に戦力を集中する事は行いません。ゲリラ側が不用意に戦力を集中すれば正規軍がこれに決戦を挑むチャンスが生まれ、一撃で壊滅してしまう恐れがある為です。(故にゲバラはゲリラ戦だけでは最終的勝利は得られない、と説く)
「分散したゲリラ的統帥法」とは、複数の独立した集団が分散して各個に敵に襲撃を仕掛けていく以上、一つの集団単位の行動の自由度を大きく認める必要性があります。それを統帥し、一つの意思の元に行動を決めて、命令を伝えて行かねばなりません。これについて現代のコンピュータとデジタルネットワークは正規軍よりもゲリラ側にとって適合性が高いのではないか、というのがfurukatsu氏の主張です。
これについて私は「イタチごっこ」になる、と考えています。確かにゲリラ戦の統制指揮には有効で、正規軍への適用よりも相性が良いかもしれない。ですが正規軍側はゲリラ側に比して膨大なリソースをデジタルネットワーク化とその進化に割く事が出来ます。相性の差があったとしても埋まってしまうかもしれない。そして正規軍のRMA化は既に始まっています。
まず、確かに多くの先進国が徴兵制をやめる、ないし縮小していることは指摘の通りである。しかし、それを以って否定する理由の補強とはなっても、洗練されたプロフェッショナル・アーミーが薄弱であるという指摘に対する反論とはならないだろう。プロフェッショナル・アーミーが数の厚みを超えてなお薄弱でないという議論を示してほしい。
少し論点がズレていると感じます。これまでの議論を見ても分かりますが、私とfurukatsu氏は基本的な面で殆ど合意に達しています。にも関わらず議論が続いているのは、このズレに拠るものが大きいのではないかと思います。これについては直接の反論も議論も必要なく、ただズレていることを指摘するだけでよいと思います。
例えば同一の国力の国同士が総力戦を行うと仮定すれば、マス・アーミーを採用した国の方が優勢になるのは当然である事は、そもそも前提のものです。
私は「マス・アーミーは必要ではない」「使う機会が訪れない」と言っているのです。先進国間での国家総力戦争そのもののが、意味を失ってしまった事。また総力戦争=全面核戦争となってしまっては、最早、市民軍の出る幕すら無いであろうという事。だから限定戦争下で投入兵力数が制限されるならば、質で勝るプロフェッショナル・アーミーを使う事が当然であろうという論議です。
しかし極東ではどうか。これについては冷戦終結による平和の配当は未だ受け取られていないだろう。むしろ地域大国となった中国の膨張主義的な政策や窮地へと追い込まれつつある北朝鮮の核開発、SCOというあらたな軍事同盟の締結、ヨーロッパ正面に兵力を張り付けずに済むようになったロシアとかえって冷戦期よりも状況は混迷している。
であるからこそ、韓国は徴兵をやめられないだろうし、わが国は日米同盟の強化に余念がないわけである。その意味ではドイツでの議論をそのまま適用するには無理があるだろう。我々は平和の配当を受け取っていないのだ。
そう、その通りです。これまで私もコレと同様の主張をあちこちで繰り返してきました。我々はまだ平和の配当を受け取っていないのです。(齟齬があるとすればロシア軍はソ連時代から大幅に兵力が衰えており、ヨーロッパ正面よりもむしろ極東方面の兵力減少が著しい点くらいか)
あと自己レスなんですが、
>最前線はポーランドとバルト三国のロシア国境まで伸びたわけだ。
ロシア国境ではなくベラルーシ国境でしたね。白ロシアの事をすっかり忘れていました。これは何時か直しておきます。
その上で日本に対する脅威という意味で考えると、彼らにとっての中規模な戦争が我々にとっての全面戦争となる可能性は十分にある。例えば、5コMD程度の着上陸を考えた場合、これは中国やロシア、ないし将来の統一朝鮮にとって決して国の全精力をかけた戦いとはならない。我々にとっては5コMDもの数だが、彼らにとってはたった5コMDとなることは十分に考えられる。つまり、我々にとっての全面戦争というのは十分に想像の範疇にある。我々の関わる戦争がすべて島嶼や一部地域のみを狙った限定戦争であれば何と楽なことかと思うが、そんなに世の中は甘くないだろう。
5個MD(MD:"Mechanized Division"・・・機械化師団の略)の揚陸。5年前にも貴方はそんな話をしていたような・・・確か自衛隊板の「反戦平和アクション議論板は自壊しました」スレッドだったかでしょうか? それと、過去の日米合同図上演習YAMASAKURAでも殆ど同じような想定があったと思います。(敵5個師団福岡着上陸)あの時の図演では一ヶ月で岡山まで攻め込まれ、その後に反撃に成功し追い落としていったという結果になっていましたから、我が方にとって「全面戦争」とは言えないでしょう。十分に対抗可能です。日本原の74式戦車がTKXに更新されれば特に問題無いと思います。
ではハイテク兵器についてはどうか。これについては確かにハイテク兵器の運用について徴兵ではやや困難があるという部分は否定しない。しかしながら考えてみれば分かるが現在の陸上自衛隊の任期制隊員は2年任期であり、概ね2任期勤めることから、4年の期間しか自衛隊に勤務していない。にもかかわらず、彼らは高度なミサイルの操作についてそれなりに習熟しているし、複雑な後方支援業務をそれなりにこなしている。
徴兵制だと1年が任期です。知り合いの一尉によれば「一年間ではやっと半人前」とのこと。いやニ年だったかな。北朝鮮のように10年近く徴兵する国は例外として、徴兵制度を取っている国は任期は短いですから、志願制度の国の兵士との練度はどうしても開いてしまいます。
社会契約というのは強制力(暴力)を共同体や政府に対して預けるところから始まっている。ホッブズ、ロック、ルソー、それぞれやや考えは違うが、人々が契約を結び強制力を預けているという点では基本的には同様である。
その意味では市民軍というのは当然の帰結である。つまり、人々がその実力を預ける端的な方法は一人一人が兵員となり強制力を担保するという方法であるという意味である。市民軍というのはそれが現実的に可能か、ないし効率的かという以前の問題として、近代国家がその構成員の実力の集合体であり、暴力の合法的な独占を要求する集団であるために当然の帰結なのである。この部分を無視してのプロフェッショナル・アーミーかマス・アーミーかという議論は片手落ちではないかと私は考える。
私はその部分に触れていません。「そうあるべき」理念は聖典にでも刻んでおけば置けばよく、現実の選択の前には何の意味も無い、と断じているだけですから。幾ら片手落ちだと言われようと、全く気にしていないわけですから、やはり無視しているのかもしれません。理念、思想、そういった議論とは別々に考えていると理解して頂ければ幸いです。
しかしながら、市民軍の理念は近代国家にとって非常に重要な価値を持つし、市民軍やゲリラ戦の思想は軍事的にもこれからの将来にわたって大きな影響を与えることだろう。
なお、私はこれから数十年に渡って徴兵制は現実性が無いと考えるが、数百年後は神ならざる身にとって予想出来る話ではない。約200年前のヨーロッパではプロフェッショナル・アーミーが破れマス・アーミーの時代が到来したのだから。
前半について、私も肯定します。理念として価値は決して失われないし、ゲリラ戦の思想は今も第三世界で現在進行形で実行されているのですから。
後半、最後の部分でfurukatsu氏はこう言います。
『私はこれから数十年に渡って徴兵制は現実性が無いと考える』それに対し、私が
「徴兵制復活?」で書いたことはこうでした。
『数十年どころか数百年のスパンで、徴兵制復活は有り得そうに無い』結論は殆ど同じです。「200年前のヨーロッパ」とは
ナポレオン時代の事を指します。200年なら「数百年」の範囲内ですから、結局furukatsu氏と私の結論には殆ど差が無かったということになります。
しかしそれが議論と成り得たのは、理念理想と現実の選択との差異があるからです。例えば石破茂防衛大臣が前の防衛長官時代、自身は徴兵制の採用に否定的でありながらも「徴兵制が憲法違反であるということには、そのような議論にはどうしても賛成しかねる」「国を守ることが意に反した奴隷的な苦役だというような国は、国家の名に値しない」と発言した事と同じような理由によるものでしょう。
石破茂もfurukatsu氏も、現状の世界情勢では徴兵制の採用など全く現実的では無いと考えています。その上で徴兵制そのものを否定してはならないと説きます。(軍隊を捨てたとされるコスタリカ憲法にすら堂々と徴兵制復活の手続きを記した項目がある)ただ、furukatsu氏はより戦略論、軍政論の深い所にまで踏み込んでいるのに対し、石破氏は浅めの理念理想で留まっている感じです。(実際にはより深く考えているのだと思いますが)
さてこの議論は一番上で述べたように、furukatsu氏側が私に対して、「一度話し合ってみたい」と思われていたテーマでした。
(JSF氏には私が81式だと言えば分かってもらえるだろうか)しかしこの時点(2006年7月19日)で「81式」と名乗られてもさっぱり分からなかったと思います。私は、実は2ch軍事板のコテハンではありません。古くから見てはいますが、「JSF」の名で書き込んだ事は軍板では一度きりしかありませんでした。必然的に軍板コテハンとの交流は少なく(せいぜい消印所沢氏くらい)、自衛隊板でヤスツ氏が主導した「反戦平和アクション掲示板」との交流(というか論戦)にしても、名無しで少しだけ参加していた程度なので、「81式」の名前は覚えていませんでした。
この夏の騒動で一体誰なのか検索して、軍板と自衛隊板で有名だったコテハン「81式」=furukatsu氏とようやく理解しています。