かつてアメリカとソ連はABM条約(Anti-Ballistic Missile Treaty,弾道弾迎撃ミサイル制限条約)を結んでいました。これは戦略弾道ミサイルを迎撃する対空ミサイルを一定の数量に制限するもので、1972年に発効し、2002年にアメリカが脱退して無効化しています。条約が締結された当時の迎撃ミサイルは精度の問題から弾道ミサイルを相手に直撃は期待できず、核弾頭を用いていました。
ABM条約は「戦略弾道ミサイル」を迎撃する対空ミサイルを制限するものでしたが、アメリカもソ連も戦略弾道ミサイルの定義をはっきりと決めていませんでした。ICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)は間違いなく該当しますが、SRBM(短距離弾ミサイル)は戦術弾道ミサイルとされて迎撃は全く制限されていません。グレーゾーンとなったのはIRBM(中距離弾道ミサイル)でしたが、アメリカもソ連も1988年にINF条約(The Intermediate-Range Nuclear Forces Treaty,中距離核戦力全廃条約)でIRBMを全廃する事になり、両国はお互いにこの点に付いて悩む必要が無くなりました。第三国の発射する中距離弾道ミサイルを迎撃する事を認め、なおかつABM条約に触れないように「IRBMは迎撃出来るがICBMの迎撃は困難」という性能の迎撃ミサイルを細かく決める事にしました。ソ連は崩壊しロシアへ変わった後、アメリカとロシアは1997年に合意に至りましたが、その後にアメリカは考えを変えて当時のクリントン大統領は議会に提出せず、後任のブッシュ大統領が2002年にABM条約を脱退を決めて、1997年の合意も発効されませんでした。
ABM条約はあと少しで、IRBM以下を迎撃目標とする戦域ミサイル防衛(TMD,Theater Missile Defense)を認める内容が追記される予定でした。TMDは二大国間の核抑止力と無関係で、通常弾頭を用いていたので使い易く、厳格に制限する必要が全く無かったのです。
そこで幻となった米露1997年ABM/TMD線引き合意に付いて紹介しておきます。
Anti-Ballistic Missile (ABM) Treaty: Acq.osd.mil より。
ABM Treaty: 1997 First Agreed Statement(a) the velocity of the interceptor missile does not exceed 3 km/sec over any part of its flight trajectory;
(b) the velocity of the ballistic target-missile does not exceed 5 km/sec over any part of its flight trajectory; and
(c) the range of the ballistic target-missile does not exceed 3,500 kilometers.
1997年最初の合意では、(a) 迎撃ミサイルの速度は秒速3kmまでとする。(b) 標的の弾道ミサイルは秒速5kmまでのものとする。(c) 標的の弾道ミサイルの射程は3500kmまでのものとする。…といった制限が加えられています。
ABM Treaty: 1997 Second Agreed Statementa) the velocity of the ballistic target-missile will not exceed 5 km/sec over any part of its flight trajectory; and
b) the range of the ballistic target-missile will not exceed 3,500 kilometers.
1997年二回目の合意では「迎撃ミサイルの速度は秒速3kmまでとする。」という項目が外されました。宇宙空間用の迎撃ミサイルは秒速3kmを超える事を考慮したいと、双方が話し合った結果です。
ABM Treaty: 1997 Agreement on Confidence-Building Measures1. Systems subject to this Agreement shall be: for the United States of America -- the Theater High-Altitude Area Defense (THAAD) System and the Navy Theater-Wide Theater Ballistic Missile Defense Program, known to the other Parties by the same names; for the Russian Federation -- the S-300V system, known to the United States of America as the SA-12 system; for the Republic of Belarus -- the S-300V system, known to the United States of America as the SA-12 system; for Ukraine -- the S-300V system, known to the United States of America as the SA-12 system; and other systems as agreed upon by the Parties in the future.
この1997年合意で指定されている迎撃ミサイルはアメリカ側がTHAAD、海軍TMD(SM-3のこと)、ロシア側はS-300V(NATO名称; SA-12)です。保有する迎撃ミサイルの性能や数量をお互いに開示する事や、迎撃試験を行う時には事前に通知する事も細かく定められています。対象国はアメリカとロシアだけでなく、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンも旧ソ連扱いで加わっています。
ABM Treaty: 1997 Joint Statement on Annual Exchange of Informationa. whether or not that Party has plans before April 1999 to test, against a ballistic target-missile, land-based, sea-based or air-based interceptor missiles whose velocity exceeds 3 km/sec over any part of their flight trajectory;
b. whether or not that Party has plans to develop such systems with interceptor missiles whose velocity over any part of their flight trajectory exceeds 5.5 km/sec for land-based and air-based systems or 4.5 km/sec for sea-based systems; and
c. whether or not that Party has plans to test such systems against ballistic target missiles with multiple independently targetable reentry vehicles or against reentry vehicles deployed or planned to be deployed on strategic ballistic missiles.
(a) 秒速3kmを超える迎撃ミサイルを1999年4月以前に試験する計画は有るかどうか。(b) 秒速5.5km以上の陸上発射型および空中発射型の迎撃ミサイル、秒速4.5km以上の海上発射型迎撃ミサイルを開発する計画は有るかどうか。(c) MIRV弾頭および戦略弾道ミサイル用の弾頭を迎撃する試験計画は有るかどうか。…1997年合意では秒速3km以上の速さを持つ迎撃ミサイルに付いて、陸上発射型および空中発射型は秒速5.5km未満、海上発射型は秒速4.5km未満なら許可する方向になっています。戦略弾道ミサイル用の弾頭とMIRV弾頭の迎撃は出来ないように制限をする方向で、当時、このabc3つの問い掛けに付いてアメリカは全て行う予定は無いと回答しており、1997年合意はこれで纏まる予定でした。
しかしアメリカはこれを反故にしました。クリントン大統領は1997年合意を議会に送らず、後任のブッシュ大統領はABM条約から脱退した理由は、TMDの枠を超える本土防衛用大型迎撃ミサイル「GBIインターセプター」が原因でした。GBIは戦略弾道ミサイルを迎撃可能な性能で1997年合意を大きく逸脱する以上、配備を進めるからにはABM条約そのものが邪魔になったのです。原因は「ならず者国家」がIRBMどころか近い将来にICBMを手にする観測が強まり、どうしても必要だと判断された為でした。1998年の北朝鮮によるテポドン1号発射事件が決定打でした。テポドン1号は準IRBM程度の性能でしたが、近い将来にICBMへと発展する事が予想され、ICBMとして実用化される前に迎撃ミサイルを実用化する判断に迫られたのです。
北朝鮮によるテポドン1号発射から14年が経ち、今年12月にテポドン2号改を転用した宇宙ロケットは人工衛星打ち上げに成功しました。核弾頭の運搬手段として実用化の目処が付いたと言えます。まだ核弾頭の小型化や再突入体、地下サイロ建設など、実戦配備までにクリアしなければならない課題はあるものの、戦略弾道ミサイルとして配備される可能性を疑う者はもう居ません。アメリカの予測は間違っていませんでした。しかしGBIの迎撃試験成績は芳しいものではなく、現オバマ大統領によって予算は削減されていました。そして今再びテポドンの脅威が再認識された為、GBI予算拡充を叫ぶ声が強くなっています。