▼フラット革命

もう一つ、例を挙げよう。二〇〇七年三月、あるノンフィクション作家は自著が軍事関連の著名ブログ『週刊オブイェクト』に批判されたことに腹を立て、このブログのコメント欄に次のような事を書いた。
<匿名ブロガーとプロ作家が対等だと考える、とんでもない思い上がり。作家の文章には商品価値があり、著作には値段が付いている。電話取材でコメントした場合でさえ、対価が生じる。つまり、俺が何らかの見識を披露し、報酬を得ないとすれば、それはボランティアだということになる。このブログに対してだけ、そのような奉仕をすべき理由など、どこにもない。「逃げたらネット中の笑いものですよ」など、ちゃんちゃらおかしい。ならば逆に尋ねるが、ここでJSF(筆者注:週刊オブイェクトの運営者)とやらを征伐したとして、それが俺のビジネスに、一体どんな利益をもたらすのかね?ヲタ(筆者注:オタク)は読者として想定してないと、一番最初に言ったろ?(中略)ともあれ、ネットウヨ(筆者注:ネットウヨク)やヲタがなに言おうが、実社会はとりあっちゃいない。思い上がりも、ほどほどにしとけ。>
しかしながら彼ら古い人たち―この元編集者やこの作家の期待に反し、いまやネットの世界は、リアルに限りなく接近しつつある。ネットの世界での評価が、そのままリアルの世界での評価とイコールとなる時代は、まもなくやってこようとしている。古い知識人やジャーナリストがさかんに「便所の落書き」「匿名は卑怯だ」とネットを攻撃しているのは、そうした新しい時代への不安であり、恐れでしかない。
「フラット革命」で紹介されたオリジナル部分はPosted by 林信吾 at 2007年03月15日 12:33:55になります。林信吾氏の名前を出さない為に「林信吾の文章には商品価値があり」→「作家の文章には商品価値があり」という改変がありますが、それ以外は全てそのままで引用されています。林信吾氏の件は、マスコミ人や著名人が批判に逆上する二つ目の例として取上げられていました。もう一つの例は「この元編集者やこの作家」とあるように、雑誌「Tarzan」元編集長の及川政治ブログ炎上事件です。及川政治氏も、直接名前は出されていませんでした。
ちなみに「逃げたらネット中の笑いものですよ」と言ったのは私ではなく、コメント欄での書き込みです。むしろ私は来訪編その四で「このブログでの投稿は林信吾さんのご好意によるものであり、林信吾さんには返答をする義務はありません。投稿するもしないも林信吾さんの自由です。」と返答しており、匿名ブロガーとプロ作家が対等ではないという、林信吾氏の主張をそのまま受け入れています。
ですが佐々木俊尚氏の「フラット革命」の内容は、インターネットのつくるフラットな空間では、属性や社会的地位によって評価が揺らいだりせず、会社経営者だろうがフリーター・ニートだろうが関係なく、匿名言論であってもロジックが説得力を持っていればきちんと評価される、とあります。それがインターネットが創る新たな世界の枠組みであり、革命であると。
佐々木俊尚氏はベルギーの女性政治学者シャンタル・ムフを引用してこう説きます。ラディカルな民主主義とは、お互いの意見を交換し、議論していく事によって本格的な民主主義を実現していく。「アゴニスティック・デモクラシー(闘技的民主主義)」。そこに友愛は必要無く、議論し、闘い続けるその上で、お互いの存在を許容し、向き合う世界。
友愛は必要ではない―ある意味衝撃的なこの言葉は、私(JSF)の頭に深く印象に残りました。民主主義の要件を分かり易く言うとすれば、フランス革命時の「自由・平等・同胞愛」の標語がそれにあたります。(同胞愛(Fraternite)は、日本語では「博愛」と訳される事が多いのですがそれは間違いで、より狭い範囲の同胞愛、友愛という意味に近い。)
新たなる民主主義では、それは要らないというのです。闘って闘って、お互いを認め合う。それは相手の意見を認めるという意味ではありません。相手の存在を認めるということ。意見の違いを認めるということ。議論の存在を、認めるということ。
以前、名古屋大学の大屋准教授は「議論とは相手の説得を目的にするものではない」と仰られました。そうです、相手を説得することは、必ずしも必要ではありません。何故なら、民主主義は多数決だからです。説得力のある主張が第三者の目に触れ、大勢がそれに賛同すれば、論争相手が納得していなくても構いません。議論の経過が可視化されていること、それが誰の目にも触れられる事に意味があります。
林信吾騒動は、序章を読めば分かりますが、発端は大屋准教授のブログからでした。私は林信吾氏との対話で、最初から相手の説得を意識していませんでした。見せるべきは、ギャラリーである第三者です。よく、説得できない相手と議論をするのは不毛だと言われますが、そんなことはありません。議論をする事そのものが、民主主義を育てていく意義のあることなのだと思います。